論理と感覚の交差点。
ハシモトナオ、戻って参りました。
以前ブログでも言った通り、長い間病質に囚われて、ついには趣味である絵にも一時期手につかなかったわけなんですが、改めて病院に行くと、所謂新型うつ→うつに発展していたことが発覚。
万年五月病体質ではあるのですが、毎年春先から5月(所謂五月病)がうつ日が増えるピークでしたので、最近徐々に沈静化して、環境を整えたということもあり、社会的現状としては厳しいままですが、とりあえず絵には手がつけれるような段階に入ったということと、絵画治療的な意味も含めまして、一応ここで復帰(私が勝手に言ってるだけ)とさせて頂きます。
沢山の「おかえりなさい」の言葉に感謝です。ありがとう。
さて、復帰がてらに昨日はささきとすずきの絵などを描いてアップしておりまして。
原点回帰の配色と再定義の世界観重視の絵を描きたくなり、「ステッカーっぽく描こう!」と描いていたわけなんですが…
アップしたしばらく後に某乃木絵描きさんが「ナオちゃんの絵を見て、自分の絵のことが掴めた。DMする。」と言ってくださいまして、そこで創作についての話をDMでやり取りしておりました。
「長く見てもらえる絵とは何か」
コンセプトや構造の重要性、考えて描くということが如何に大事かという話でした。
そこから思い出してふとブログに描こうと思ったのが、私が高校3年の頃にクリエイターの本やドキュメンタリー、実体験などを踏まえて打ち立てた創作論、「論理と感覚の交差点」です。
クリエイターには主に「論理派」と「感覚派」の2種類のタイプがいる、とよく言われています。
「これをこうすればこう見える」「これはこれを表現する上で向いていない」など、自分のロジックを打ち立てて、自分自身の感覚というものをあまり信用せず、ひたすら理詰めでものづくりをしていく「論理派」。
「こっちの方がかっこいい」「あっちの方が気持ちいい」など、自分の感性を信じて、直感でその場その場で選択をしていく「感覚派」。
ものづくりがその時そのテーマで答えが存在しているという前提で話を進めていきますが、実はこのどちらのタイプとも最終的には同じ答えにたどり着くのではないか、という考え方です。
一見真逆とも思えるそれぞれのアプローチは、実は脳の奥底で繋がっている。
水野学の「センスは知識で出来ている」でも、センスとは自分が持っている知識量から判断されていくものであり、決して天性のものではないと明言されています。
つまり、感覚は論理によって翻訳が可能であり、逆も然りなのではないか、ということです。
「論理」と「感覚」、それぞれの道(アプローチ)は違えど、目指す場所(答え)は同じ。
そこである考えがひとつ浮かぶわけです。
「論理でも感覚でもどちらでもアプローチ可能な創作こそ、確実に答えに到達でき、最強なのではないか?」
つまり常に双方向からアプローチをしていき、片方で考えや選択に迷いが生じた場合は、もう片方のアプローチでそれを補っていき、確実に答えへと辿り着いていく、ということです。
これを私は「論理」と「感覚」のふたつのベクトルが「答え」という交差点を目指すという意味で、「論理と感覚の交差点」と呼んでいます。
それから4年ほど、この考え方で実証をやっているわけなんですが、実はこの「論理」と「感覚」のアプローチが研鑽を重ねていくことによって、やがて「経験則」というひとつのかたちへと統合されていくのではないかということに途中で気付いたり、あらゆる人達の手法を聴いて照らし合わせて、それぞれが違う言い方をしているだけで、かなり近い考え方もあるなと感じたり、実際に手数を重ねていくことで、この手法も段々と板についてくるようになりました。
ざっとこんな感じです。昨晩のDMの一件で思い出したので、メモがてらに記しておきました。
これからもこの実証などを含めて、皆さんの創作論や手法などを聴いてみたいと思っております。
さてさて、私は次の課題にとりかかなければ…